072. クッキーの崩れる音



「そうか。リアは、まだ来ていないのか」
 ランスは娼館の入口で、思わずため息を吐いた。
 本来彼の地位があれば、フェリアが住むサンモーガン邸を訪れるのに支障は無い。
 だが、まだ、折角できた彼女との信頼関係を壊したくはなかったのだ。
 出会ったのは偶然でも、彼が足繁く通う理由は、誰も知らないが、彼女の父である国王の命であることを知られたくなかった。
 国王の命がなくとも、彼女がサンモーガン卿の孫ではなかったとしても、会いに来ていたと思うだけに余計だ。
「よぉ」
「デジレ殿」
 上から声が降ってきて、ランスは声の主を振り仰ぐ。
「あんたもあいかーらず堅苦しいなぁ……。サリウスでいいっつってんのに」
 サリウス=ヴァン=デジレは苦笑しつつ、二階の窓から飛び降りた。
 わざわざ飛び降りる必要はないだろう、と思いながらも、階段に回るのが面倒だというのも彼らしいと思う。
「嬢ちゃんなら、まだ考え中だぞ」
「そうですか」
 なぜフェリアが二月近くもこちらに来ないのかの理由は、ずいぶん前にルビーとサリウスが大喧嘩をしていた際に察していた。
「師匠は、辛いですね」
「ん?」
 彼の声音が、言葉とは裏腹だったせいだろう、サリウスも目を細めて見返してくる。
「確かに自分で乗り越えなくてはならないでしょう。けれど、あの子はまだ一〇歳なんですよ」
「へぇ、ご立派。さすが、お城の騎士様は言うことが違うねぇ。……そう思うなら、不甲斐ない俺なんか無視して、あんたがぐずぐずに甘やかしてやりゃあいいじゃねぇか」
 サリウスは嫌味たっぷりに言った後、
  良心に恥じずにできるんならな」
 鋭く言い放つ。
 周囲の者が思っている以上に、国王の信認が篤く、国での地位が高いことを知っている彼は、ランスがどのような目的で来ているのかということも、相当勘ぐっているのだろう。
「……」
 ランスもさすがに癇に障ったが、真っ向から言い争っても益はなく、知らなくても良い者にまでフェリアのことを知らせる結果になる。
 けれど、ただ引き下がるのも業腹だったので、
「あなたに八つ当たりされるのは光栄ですね」
 余裕たっぷりに笑って見せた。
 サリウスの頬が朱に染まる。
 フェリアが来なくなったのは、彼が言わなくても良いことを、子ども相手にムキになって口を滑らせた結果だ。
 思った以上にフェリアを傷つけたことに、自責の念を感じているのだろう。
 彼らはフェリアという魅力的な人間に引き寄せられて集まった。
 彼女に好かれたい、彼女に笑っていて欲しい、もっと傍にいたい。
 そう思わせるだけのものが、彼女にあるからだ。
 子どもがこぞって欲しがるクッキーのように。
 けれど、争いすぎて、そのクッキーを握りつぶしてしまったとしたら?
 クッキーが崩れる音。
 フェリアが壊れる音。
 そんなものを聞くのは耐えないと思いながら、今彼らは遠巻きに眺めているしかないのだった。

2014.08.20

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