038. 朝のできごと

 昇り始めた朝日が顔を照らし、
「あーあ」
 彼は目を覚まして伸びをし、そして大きく溜息を吐いた。
 背中の翅を動かしてはみても、飛べるとは思えない。
 家族の崩壊を見たくなくて、子どもたちの揶揄に耐えられなくて、勢いに任せてというよりも逃げるように薄羽族の村を飛び出して来た。
 目的はただ一つ「飛べるようになること」だが、どうすれば良いのか、どこに行けばよいのかという方策は欠片もありはしないのだ。
「……仕方ないや」
 確かなのはここにいるだけでは飛べるようにならないし、どこかから飛べる方策が落ちてくるわけではないということだ。
 とにかく今日も天気は良く、旅立ちの朝としては申し分がなかった。
 ちょうど下の枝に小鳥が止まるのが見える。
 あてのない一人旅、ここまでずっと小鳥の背に乗って、彼らが飛ぶに任せて旅をしてきたのだ。
「ちょっと乗せてねっ」
 目的がない以上旅の手段を変更することもあるまい。
 彼は小鳥の背に飛び乗った。
 小鳥は驚いたように羽ばたき、彼は慌ててしがみつく。
「ごめんよ、痛いことはしないから。ちょっとだけ乗せてね」
 宥めるように首筋を叩くと、小鳥は落ち着いて飛び始める。
 そろそろ村の古老が言っていた「人間」という大きな生きものが住む地が見えてくるだろう。
「見つかったら潰されるかも」
 我知らず身震いしたとき、
「うわっ?」
 何かが小鳥の横を飛びすぎた。
「な、何? 何?」
 小鳥は慌てたように迷走し始める。
「わ、わ、わぁぁぁぁぁっっ」
 もう一度何か黒い影が小鳥の脇をかすめ、彼は手を離してしまった。
 脳裏をよぎるのは「死」という文字。
 彼はただ目を閉じ、がむしゃらに羽を動かそうとしたが、そのまま意識を失ってしまった。


「ねぇねぇ、おっちゃん、これ、なんだと思う?」
 聞こえてきたのは、幼い声。
「何って、妖精ってやつじゃねぇーの?」
「えー、それってお話の中じゃないの? 小人さんじゃないの? だって、こんな汚れたヨーセーさんがいるとは思えないもん」
 あからさまに胡散臭そうな口ぶりに、彼は何もかも忘れて叫んでいた。
「悪かったなっ! これでも、歴とした薄羽族だよっっ!」
「あ、動いたっ」
「動いたって……」
 ここでようやく自分の置かれている状況を把握する。
 彼の目の前には今まで見たこともないほど大きな顔があった。
「う、うあぁぁっ」
 ようやく自分を捕らえている者を知り、彼は尻餅をついた。
 それは、先ほどから小生意気な口調で喋っている少女の掌の上だった。
 朝陽に煌めく青銀の髪、柔らかそうな白い肌、大きな目が彼を見つめている。
 大きさに驚いたものの、彼が初めて見た人間はとても綺麗だった。
「ねぇーねぇー、小人さん、だいじょーぶ? 何で木の上にひっかかってたの?」
 少女は好奇心に溢れるような口調で問いかけてくる。
 どうやら、小鳥の背から落ちて木に引っかかっていたところを、この少女に見つかってしまったようだ。
「どうでもいいだろっ」
「うん。じゃあ、名前は?」
 邪険に扱ったというのにあっさりと流され、彼は口を開いたまま固まってしまう。
「小人さん、名前ないの?」
「だから、小人じゃないってばっ。名前はあるけど、一族以外には秘密なのっ」
「じゃあ、あたしがつけてあげるね。友だちに名前ないと不便だもんね」
「待って、いつから友だちになったのさ? いらないよっ。名前なんて、余計なことしないでいーからっっ」
 名前をつけられることは時として命取りになる。
 彼らにとって名とは神聖なものであり、故に一族以外には秘密にしてあるのだし、他人から名を与えられることによって、その相手に縛られることにもなりかねない。
 だが、彼の必死の抗議など気にも留めず、少女はしばし考え、
妖精もどき(フェリック)
 と、とろけるような笑みを浮かべて言い放った。
「うあ、滅茶苦茶喧嘩売ってる?」
 全身に走る奇妙な感覚が、彼が縛られたことを示していたが、それよりも少女のつけた名前への怒りの方が上回った。
「だって、あたしはヨーセーさんって見たことないもん。本人がそー言ってるからってそのまんま信じるってよくないんだよ。だまされちゃうんだから」
「……あのな、嬢ちゃん。どうしてお前さんはそういうことばっかり覚えてくんだ?」
 今まで気付かなかったが、少女の傍にいた男が心底嫌そうな表情で、彼らを見ている。
「ミミガクモンって言うんだよ。今日から小人さんはフェリックね。フェイって呼ぶからね。あたしのことはリアって呼んでね」
 そう言ってリアは嬉しそうに笑った。
 こうして、この朝のできごとによって彼、フェリックはフェリアと共に生活することになったのであった。

2005.08.18

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