008. うさぎ

「やーい、泣き虫、弱虫ーっ」
「ザックのお目々は真っ赤っか。うさぎのお目々ぇ」
「うさぎー、うさぎっ。泣き虫うさぎぃっ」
 子どもたちの揶揄する声が通りに響き渡る。
 彼が竦んで動けなくなったのを見て取ると、ますます取り囲んで囃し立てる声は大きくなっていく。
 何故かはわからないがアイザックのことを子どもたちの中心人物であるブルータスは目の敵にしており、取り巻きたちもその意を汲んでいるのだ。
「何か言ったらどうなんだよ、うさぎちゃん」
 ブルータスの大きな手に胸を突かれ、アイザックは体勢を立て直すこともなく泥の中にしりもちをつく。
 その光景に取り巻きたちは、手を打ってはしゃぎ出す。
   もう少しの我慢。
 泥水がしみこんでくる不快感を堪え、唇をかみしめながら俯く。
 今までの経験からいっても、一通り馬鹿にして気が済めば彼らは去っていくのだ。
 だが、不意に笑い声に別な音が混じり、
「ぎゃっ」
「な、何だ?」
「うあぁっ」
 次々と悲鳴が上がった。
 好奇心に駆られて面を上げたアイザックは、思いがけない光景に口を開ける。
 ブルータスをはじめ、子どもたちは顔に泥を浴び右往左往しているのだ。
 異音の正体は泥が空を切り、命中した音だったのだ。
「に、逃げろっ」
 更にいくつかの泥の塊がどこからともなく飛来するに至って、子どもたちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
「ふん。ばぁーか」
 物陰から出てきた少女に、アイザックの口は更に大きく開く。
 年は10歳くらい、青銀の髪をうるさそうにかき上げ蔑むように彼を見る。
 偉そうな態度と、年上である彼を馬鹿にした表情ではあるが、今まで逢った中で一番の美少女と言っていい。
 むしろ、こんなに美しい少女が存在することを想像さえしていなかったというのが正しい。
 だが、泥の中にへたり込み、口を開けっ放しにしている彼はさぞ間抜けに見えることだろう。
 そのことに思い至り、アイザックは慌てて口を閉じ赤面しながら立ち上がった。
「あの……ありがとう」
「別に。あたしは、あーいうのが嫌いなの。でも、あなたみたいなのもきらーい」
 少女は「イーッ」というように口を広げてみせるが、そういう表情も可愛らしく、馬鹿にされたのにもかかわらずアイザックはどぎまぎしてしまう。
「何で言いなりなってるの? 嫌なら反撃すればいいのに」
  黙ってればあいつらはいなくなるんだ」
 自ら好んで痛い思いをする必要はない。
「うさぎに失礼だよね」
「は?」
「だってそーじゃない。うさぎは一生懸命キツネとか人間とかに捕まらないように頑張ってるし、生命の危険が近づいたらちゃんと反撃するもん。うさぎのキックって痛いんだよ? あなたみたいなのにうさぎが例えられたらめーわくだよ」
 言いたいことだけ言うと少女は踵を返すと、走り去っていく。
「あ」
 一人取り残されたアイザックは、茫然と立ちつくす。
「うさぎは反撃する、か」
 ただやられているだけの臆病者である彼は、うさぎ以下だと言われたのに不思議と腹は立たなかった。
 突然現れ、言いたい放題言って去っていった少女が神の使いか悪魔の使いかはわからない。
 だが、アイザックはふと心が軽くなったような気がした。

2005.04.07 inserted by FC2 system