009. 結び目

 結ぶという言葉には、「人と人を結びつける」とか、何かをつなげるというイメージがある。
 けれど、何かに「結びつける」ということは、そこから動けなくすることにも通じると感じる。
 
 「こうあるべきである」
 「こうするべきだ」
 というように。
 
 今、よくテレビなどでは「今、これが流行る」とか、「流行の」というようなキャッチフレーズを目にするけれど、それも結局メディアが放送することによって、更に大きな反響を与えるということが言えるだろう。
 メディアと人の生活は、密接に結びついていてなかなか引き離すことができない。
 それに乗っていくことを望むか、傍観するか、違うように見えて、結局メディアに左右されていることに違いはない。
 日本人の傾向としてよく言われることだが、人と同じようにしていることが安心だという部分がある。
 これも、大多数という部分に自分を結びつけて、そこから離れないようにしているに過ぎない。
 と、偉そうなことを書いてはみても、自分もその中の一人であることは間違いなく、その結び目をほどく勇気もない。
 先日、何かの記事で「中田英寿選手の「自分探し」という言葉はおかしいのでは」と書かれた記事を読んだ。
 記事を特に覚えているわけではないので、詳しくは書かないけれど、この「自分探し」というのも、よく使われるキャッチフレーズとなった。
 けれども、毎日何かしら考えて生きている以上、そこに自分があることは間違いない。
 「やりがい」「生きがい」がないと言うけれど、誰に対する、何に対する「やりがい」「生きがい」なのか。
 いつでも、誰にでもそういうものがあるとは限らない。
 いつまでも自分にはそういうものがないとは限らない。
 そういう風に考える余裕がなくなって、「自分」というものをしっかり確率しなくっちゃ!
 っていう想いに駆られて追いつめられているようにしか思えない部分もある。
 よく自分の才能を売ると思われている芸能人の中にだって、決して個性的、独創的とは言えない人も多いと思うのに。
 
 自分の中で断固として守るべきもの。
 自分の中で勇気を出して離すべきもの。
 
 自分でほどけないような結び目は作らない、作らせない。
 そういうことが大切なんじゃないかな、と思う。


「009.結び目」
 
 年を重ねてひとっつ
 人と出会ってまたひとっつ
 次々と結び目が出来ていく
 
 するりとほどけて手から抜けていった関係
 ほどこうとすればするほどに絡まる関係
 いつ切れても構わないと思いつつも結ばれている関係
 
 追うも追われるも
 己次第なのに
 何故かままならない気がする結び目
 
 年を重ねてひとっつ
 人と別れてまたひとっつ
 次々とほどけていく結び目
 
 いい思い出として
 辛い思い出として
 私の中からほどけていく結び目
 
 追うも追われるも
 己次第なのに
 何故かままならない気がする結び目
 
 ほどいて
 結んで
 ほどいて
 結んで
 そうして年経る己を好きになりたい……
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