001. 始まり
どこか遠いところで、何かが倒れる音がした。
だが鼻腔に流れ込む土の匂い、頬にあたる湿った感触に、倒れたのが彼自身であることが遅ればせながら認識される。
「腹ぁ減ったぁ……」
呻くのも蚊の鳴くような声にしかならない。
既に空腹に波がある時期は過ぎている。気力で踏みとどまれる限界も過ぎた。
剣豪と謳われ、容姿才能、体力実力に自信があれども、飢えには勝てない。
こんなことになるなら、あのまんま仕事やってりゃ良かったなぁ。
などと考えてみても、後の祭り。後悔先に立たずというやつである。
とはいえ、どう頑張ってみても全く才能がない、我が儘いっぱいに育った貴族の青年に剣の指南をすることは無理な相談だった。
もっとも、その仕事を蹴ったばかりに、王宮への士官の口も消え、この体たらくではあるのだが。
ここで死ぬのか。
街外れの森の中。
人が頻繁に通るような気配もなく、実際ここに至るまでに人の姿どころか気配さえなかったのだ。
野垂れ死に、という単語が霞む意識の中で大きくのしかかって来たとき、軽い足音が近づいてきた。
声を出そうとは思ったのだが、音になったのかもはっきりしない。
だが幸いなことに足音は一度止まったのち、小走りに近づいてきた。
「こんなとこで寝てるなんて変わってるね、おっちゃん」
幼い少女の声が降ってくる。
誰がおっちゃんじゃあっ!
余力さえあれば、そう叫んでいたところだが、今の彼には身体の向きを変えることさえも難しい。
「く……食い物を」
なけなしの体力を振り絞って、言えたのはこれだけだった。
「お腹空いてるの?」
必死に頷く。
少女は彼の前に立っているようなのだが、顔を上げることが出来ずにいるため、どんな子どもかはわからない。
「……うーん。食べるものはあるんだけどね、お台所からくすねてきたのが。どうせバレるから帰れば叱られるんだけどさ。でもね、自分で食べて叱られるならともかく、他人が食べちゃったのを叱られるって嫌じゃない?」
全く切迫感や同情の欠片もないこまっしゃくれた口調で少女はしゃべり出す。
「マーサはね、怒ると怖いの。ねぇ、おっちゃん、聞いてる?」
「……食いもん」
目の前に飢え死にしかけた男がいるんだぞっ、良心とか思いやりってもんはねぇーのかっ?
言いたいことは山ほどあれど、体力がない。
万全の状態であれば、捻り潰して教育的指導をしてやるというのに。
様々な思いを抱きながら歯がみするが、それすら弱々しい。
「それにね、こんなところに倒れてるおっちゃんが清く正しい人かどうかって疑問もあるよね? 食べ物あげた途端に元気になって、襲ってくるとかもあるわけでしょ。こんなところじゃあ、悲鳴あげたって誰も助けてくれないし。悪党ならここで土に還した方が動物も森も喜ぶし、これから襲われるかもしれない他人様の役にも立つってもんだよね。ねぇ、おっちゃんはどう思う?」
そんな彼の様子にも気付かず、少女は更にぺらぺらとまくしたてていく。
相づちも打つ気力もなく、倒れ伏した彼に、
「ねぇねぇ、食べ物あげたら、何でも言うこと聞いてくれる?」
ようやく少女は、彼に慈悲を垂れることに決めたようだった。
「聞くっ」
迷わず即答。
「男に二言はないんだよね?」
これが、サリウス=ヴァン=デジレとフェリア=トレスタ=サンモーガンの出会いであり、始まりだった。
2005.01.31