098. 軽い



 夕刻、突如止まった馬車に、アルバス=ディルム=サンモーガンは、総身を緊張させる。
「どうしたっ?」
 国の重鎮と言われてはいても、かりそめではあっても平和なこの国の、もう老齢の彼を狙う輩などいないと思いはしても、それを頭から信じ込むほど平和ぼけしてもいない。
 だが、
「も、申し訳ありません、旦那様。突然、前に」
「……デジレ殿?」
 馭者の狼狽えた声に、窓から顔を出したアルバスは、前に立っているのが孫娘に剣を教えているサリウス=ヴァン=デジレと知り、緊張を解く。
「突然申し訳ありません。少々お話がありまして」
 サリウスの表情は固く、笑ってはいても、退く気はなさそうだ。
 アルバスの方にも思い当たることがあったので、馬車の中に招く。
 ステッキで合図をすると、馬車は走り出す。
「フェリアのことかね」
「ええ。卿が、彼女の下町行きを禁止されたのだろうと思いまして」
「そうだな。そこまで察しているのなら、君ならばその理由もわかってもらえると思うが?」
 今までは、フェリアが下町に行くことで、サリウスたちに会うことで、心の均衡を取っているのであれば、と許容していたものの、そろそろ社交界に出る年頃になり、見合いの話も出てきている。
 醜聞は避けるべきだと考えているのだ。
「確かに、下町はサンモーガン家令嬢が来るべき場所ではないでしょう。ですが、彼女は分別を持って過ごしていますよ」
 サリウスは軽く肩をすくめる。
 その様子にアルバスは違和感を感じた。
 何度か会ってはいるが、彼は礼儀正しい青年だったはずだ。そう思って、彼を再度正面から見据え、理解した。
 彼は怒っているのだ、アルバスに対して。
「私は、フェリアにとって良かれと思って、下町へ行くことを禁止した」
「はっ」
 次の言葉を続ける前に、サリウスは鼻先で笑った。
 さすがにこの無礼にはアルバスも苛立ったが、
「嬢ちゃんのため? 確かにそうでしょうとも」
 サリウスが言葉を発する方が速かった。
「貴方はわかっていますか? 嬢ちゃんがどれだけ自分を軽んじているかを」
「?」
「あの子は、友だちのために剣を習い、フェイのために魔法を習った。貴方が家を誇りに思っているから、礼儀作法を学び、貴方が禁じたから、下町へ来ることも辞める。唯一「来たいから」というささやかな自分の望みを軽んじる。そのことをわかっていますか?」
「それは」
 アルバスは、反論しようとしたが、できなかった。
 今は亡き母リディスのために、人形のように黙して座っていたフェリアを、そして今なお、「フェリア=トレスタ=サンモーガン」としては、同じように黙して座る彼女を知っているから。
「あの子は貴方を心から敬愛している。そして、自分が自分を軽んじていることに気づいていない。他人のためには、あれほどまでに真剣になれるのに」
 フェリアの将来を思ってのこと。
 それは間違いなかった。
 今も下町に行くことを止めたことを悪いとは思い切れない。
 しかし、彼が命じたとき、フェリアは一瞬何かを言いかけ、そして、小さく頷いた。
 そのときの、生気を失った瞳を思い出してしまう。
 アルバスは、深々とうなだれた。


 2016年08月08日

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