096. フレーズ



「覚えらんなぁーいっ!」
 フェリアは、ペンをテーブルに放り投げ、頬を膨らませる。
「……でも、フェリアお嬢様、イサック先生からの宿題ですよ」
 ヴァイスは溜息を押し殺して、読んでいた本から顔を上げる。
「フェイだって、あんなに頑張ってるんですから」
 小人族のフェリックは眉根を寄せて、魔法書を眺めている。  彼にとって、人間の魔法書を読むのは、一苦労だ。
 立てておけば上の方が読めないし、横に寝かせておいても、分厚い本になってしまうと閉じてしまう。
 以前、閉じてきた本に挟まれて、酷い目に遭ってから、フェリアが職人に頼んで本のページを押さえておく台を作ったが、それでも一ページ読み、ページをめくって……という労力は端で見ていても半端ない。
「わかってるけどさぁ」
 彼女は頭が悪いわけではないが、「自分に必要か不必要か」というところで、勉強に対する集中力が著しく変わる。
「世の中には、知らなくて損をしたということはあっても、知っていて損をしたということはないんですよ?」
 今彼女が課せられた宿題は、詩の暗唱。
 彼からしてみれば、フェリックが覚えているような、古代文字のような記号のような呪文を、あっという間に覚えられるのに、なぜこれが覚えられないかの方が疑問なのだが。
「まずは、本を読みながら、音読してみればいいんじゃないですか?」
「……」
 唇を尖らせながらも、フェリアは言われた通り詩を朗読し始める。
 詠うように、抑揚をつけて。
 美しい波紋が広がっていくように、空気が洗われていくかのような錯覚さえ感じさせる。
 ヴァイスは、嘆息を漏らす。
 まだ一〇歳になるかならないかと言うのに、「美しい」と言ってもいい整った顔立ちで、声までも美しい。
 イサックが、暗唱させたがるのは、彼女のためというよりは、この声を聴きたいためではないかとさえ思わせる。
 文字を追わずに暗唱するフェリアは、本当に美しいし、内容を理解しているときにはまるでその情景さえ思い起こさせる力があった。
 いつの間にかフェリックさえも、自分の勉強を忘れて、フェリアを見つめている。
「……何でわざわざ暗記しなくちゃダメなのかなぁ」
 読み終わってから、フェリアは、深々と溜息を吐く。
「いつかどっかで役に立つからじゃない?」
「いつかどっかで、ねぇ」
 フェリックの言葉に、フェリアは懐疑的に首を傾げる。
 それはそうだろう、とヴァイスは内心嘆息する。
 彼女は、この国では指折りの貴族の娘であっても、世間的には「父親が誰かわからない娘」なのだ。
 まるで、それが、貴族社会の「穢れ」でもあるかのように囁かれている。
 貴族としての素養が、どこまで必要なのかと思うのも無理はない。
「……ま、ヴァイスがいつも言ってるし、さっきも言ってたけど、知ってて損することはないっていうのと、フェイが言う、いつかどっかでっていうのを信じて勉強しますか」
 まるで気休めのようにいつものフレーズを言って、フェリアは、先ほどよりは少し気合いを入れて、本に向かい合うのだった。


 2016年8月8日

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